現代も続く一神教の害悪(2)

コメントを頂いたので古いブログですが、再度掲載します。
なお、コメントでは「日本にも天国のようなものがあります。高天原です。」というものでした。
私の意見では高天原は天国ではなく八百万の神々の居場所です。日本には地獄に似た「黄泉の国」はありますが、天国という概念はありません。死者は全て「忌むべきもの」であり黄泉の国に行くのです。
天国などというのは一神教の妄想にすぎません。日本の方がはるかに現実的です。

20160302 現代も続く一神教の害悪
現代社会は一神教(主としてキリスト教徒その分派であるイスラム教)の支配下にあると言えます。一神教であるキリスト教とイスラム教が西側世界を二分して以来、個人的に救われた人は多いのでしょうが、人類社会にとってそれは害悪だったし今もそうだとしか言えません。一神教は多様性を否定します。
実は多様性こそが進化の源泉なのですが、一神教は多様性を認めません。そもそも存在証明不可能の「創造主」を仮定することは、信じるのは勝手ですが単なる妄想です。
南米で神の名の下に欲に駆られてインカやマヤの文化遺産を破壊したのはスペイン人のコルテスや、フランシスコ会の神父です。

所詮同根の宗教の分派戦争であるキリスト教世界の十字軍とイスラム世界との対立は、十字軍当時は蛮地であった西欧諸国のヤクザな連中が、キリスト教の神の名の下で文明国たるイスラム世界の財宝を奪いに行って、結局は負けてしまったというものでしょう。
その後、産業革命で力を付けたキリスト教世界は、異端として世界中の異民族を征服し現地の文明を破壊し人々を虐待してきました。
南米のマヤ文明やインカ、オルロク文明の破壊がいい例です。

それもこれも一つには、キリスト教の解釈として、「人間以外の動物は人間の為にある」とする独善的考え方に在ります。
実はイエスはそんなことは言っていませんが、教会がそのような好き勝手な解釈をしたのです。
これこそが一神教だからこその考え方と言えます。(ちなみに聖母マリアとか12使徒信仰なども教会の勝手な解釈であって、使徒が書いた新約聖書でもイエスはそんなことに言及していません。聖母マリアや12使徒などはイエスが認めたものではないのです。)
イスラム教も似たようなものです。元来は単純な宗教でしたが、聖戦という言葉を拡大解釈して積極的に他宗教を攻撃するようになりました。

こんな一神教に反して、日本では、全ての生き物はいわば同胞で、人間動物植物有機物無機物を問わず、全て命あるものとして尊重されるべきものなのです。これこそが愛の宗教というべきです。
家畜を殺すことを当然とするキリスト教が「愛の宗教」などと称するのは???です。

話変わって、20160410ふじTVでTopics100というのをやっていました。
振り返ればいろいろな事件がありました。未だに解決していない問題が多々あると言う事実も驚きです。例えば、沖縄米軍基地移転問題、東日本大震災、オウム真理教事件などです。
そのオウム真理教は未だに信者の残党がアレフとかいう名前で継続しているようです。
オウムのナンバー2の早川死刑囚が、浅原彰晃教祖逮捕後に「唯いつの拠り所であった真理教を脱退しました」と言っていましたが、基本的に「群れ社会」で生きる人間は「拠り所」が欲しいのですね。
教祖である浅原某は、空中浮揚をして信者を獲得したようですが、彼が空中浮揚をした瞬間にどうして、彼を外に連れ出して適当なところで再演してくれと頼まなかったのでしょうかね。それも20センチ浮かぶだけでなく、1キロくらいの移動もしてもらうべきだったのです。それが検証と云うことです。
検証もしないで信じるのはお馬鹿というか、単にその人が何かを信じたいのでしょうね。(一神教でも存在証明できない神をただ信じろと言いますが)

勿論民主社会では、人が何を信じようと自由です。しかし、その宗教が、いかなる理由であれ(教義や教団防衛とか)人を殺したり傷つけたりすることを許すのであれば、そのような宗教は社会として禁止すべきです。
社会ルール、社会正義に悖る宗教は社会から排除すべきです。

そういう意味では、現在のイスラム教は、聖戦の名の下に「テロは聖戦」とするのですから、そうである限り世界は当然そのような教団を禁止すべきです。
かって、キリスト教も魔女裁判とか異端裁判とか言って教会が恣意的に、神の名の下に人の命を奪っていました。現在はそういうことは無いようですが。
いずれにしろ、そのような宗教を信じる人たちは、経済的かつ精神的に救いを求めているのですから、まずは宗教ではなく社会と政治が救済措置を講ずるべきなのです。それこそがテロとの戦いの本質でしょう?

ところで、私は宗教を分類すれば、一神教と多神教そして自然宗教の3つになると思います。一神教は他の神、他の宗教の存在を認めませんので、本来民主社会は信仰の自由は保障してもそのような宗教を許すべきではありません。(キリスト教やイスラム教の特定教団。ユダヤ教も一神教ですが、多民族に対する布教をしませんし、他宗教を攻撃もしませんので問題ありません)

多神教は少し複雑です。古代ギリシャのオリンポス神の信仰は、神々自体が争ったり、人間の処女をレイプしたり、人間間の戦争に介入したりします。
こんな神々はギリシャ人には必要であっても人類社会をしては不要でしょう。ただ積極的な布教はしませんし他の宗教を弾圧したり攻撃したりしませんので勝手に信仰しなさいというところでしょう。ヒンヅー教の多くの神々も似たり寄ったりです。

しかし、もっと素朴な「自然現象=神」とする信仰は、言葉を代えれば、「自然の力への尊敬」に他なりません。
例えば日本の神道(この言葉は違和感があります。日本古来の信仰と言う方がしっくりします)自然物自然現象全てを神として畏れ敬います。山川草木も石も風や雨や雪も、蛇であれミミズであれ、サルであれ狐であれ動物もつまり有機物も無機物も全ても神になり得ます。人間も自然の一部という認識でしょう。
基本的にその中で大きなものや古いものは神性を持つとされるのです。
創造主もありません。初め世界は混沌でそこに神が萌え出るのです。
死後の世界は単なる忌むべき汚辱の世界であって地獄とかではありません。そこは単なる腐敗の世界です。(古事記)当然輪廻転生や天国、浄土もありません。
実に素直な世界だし、仏陀の教えはこれに近いものがあります。(その後の大乗小乗仏教は、「諸行無常諸法無我)という仏陀の教えとはかけ離れています)
しかも、神社の神職は仏教やキリスト教などと違いヒエラルキー組織ではありませんし、職業化してもいません。
他の宗教ではいずれも宗教が職業と化し僧侶や司祭は単なる職業であって本来の教義に悖っています。
ですから、私は、今の世界を救えるのは、神道だろうと思います。教団化がなく、全ての自然を畏れ大切にし敬うからです。
存在証明もできない神(一神教や多神教の想像上の神)を信じるよりもこの方がずっと自然です。(自然現象とか対象物が存在しますから)

でも、人間は所詮群れで生きる動物ですので大半の人はリーダーを求め、他人や他物に救いを求めるようです。つまりは他人依存症なのでしょう。
仏陀は、他人の言うことや他人の書いたものなど、他人に依拠せず独り孤高を保ち無一物で修行し悟りに至ることを説き勧めました。
これこそは最高の教えだと思いますが、群れ社会の人間にはとても難しいことです。結局一神教の神に頼る方が簡単ですから。
それが原因で仏陀の教えは曲解され仏陀の教えとは似ても似つかぬ仏教になりしかも一神教に負けました。

私は現代の世界の混乱の主因は資本主義と一神教に根源があると思います。
念の為に付言すれば、資本主義は不可ですが、貨幣と市場経済は需給の調整と評価手段として必要です。

信仰は自由ですが、積極的な布教活動は禁止すべきですし、神や霊魂や天国地獄を一般向けのメディアで描くのは禁止すべきです。

補足 布教について
キリスト教では布教と言い、日蓮宗では広宣流布とか折伏と言います。
禅宗以外の仏教諸派も「衆生済度」を目的としています。
キリスト教にしろ、仏教諸派にしろ、「衆生済度が眼目」です。
しかし、「衆生済度」というのは極めて傲慢な考え方です。
その上司祭や僧侶が自ら教義を実践してもいないのに布教や折伏をするのは不遜ですし傲慢です。
キリスト教もローマ教会が認める司祭、牧師が布教をして、人々を救うと言いますが、それは傲慢としか言いようがありません。まして司祭牧師で罪を犯すものが多々居るにもかかわらずです。
仏教も似たようなものです。広宣流布するという者自身が悟りに至っていないのは明らかです。なのに、広宣流布、衆生済度は傲慢です。
勿論、イエスは新約聖書で「世界に布教しろ」と言ったと書かれていますが、聖書の復活場面以降は明らかにそれ以前と文体が違いますし、筆者によって大いに差がありますので、当然イエス本人の言ではなく、筆者が勝手に付加したものでしょう。かりに上記が事実であるにしても、12使徒以外には権限がふされていません。では12使徒以降の信徒は誰から布教の権限を付与されたのか?ローマ教皇で言えば、枢機卿の会議で教皇選ばれるのであって神から権限を付与されるのではありません。そんな教皇などは実は意味がないでしょう?
仏陀も死後数回の結集がありましたが口伝でした。文書化されるのは100年後のアショカ王の時代です。最古の仏典とされるスッタニパータでは、衆生済度とか広宣流布とかは言っていません。「道を求める者には悟りに至る方法を教える」という態度であって、あくまで個人個人が自ら努力するのが悟りに至る道だと言っています。

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この記事へのコメント

ローマ人もどき
2020年05月22日 09:06
コメント感謝。
でも高天原は天国ではありません。八百万の神々の居所であって、人間や死者が行くところではないのです。
日本では死者はすべからく黄泉の国に行きます。天国という概念はないのです。
日本では死人は忌むべきものなのです。ですから死人に触れれば禊をします。古事記でも死人と間違われた神が怒りまくっています。
通りすがり
2020年05月20日 11:28
神道にも高天原という神々がおわす天国と言えるものはありますよ。

一神教のユダヤ、キリスト、イスラムは同じ神なのにいがみ合っていて滑稽ですね。

古くは天動説と地動説で教義に合わなければ処刑し、科学を無視するなど暴挙だらけで信じるに値しないものです。
az
2018年12月16日 06:20
システム内部から
システム外部の存在証明は
不可能です。
それはシステム内部から
システム外部に進出する事ですから。
しかしシステムの存在によって
システム外部を推定する事は可能です。
あくまで人間は宇宙というシステム内部に閉じ込められてますからね
az
2018年12月16日 06:18
システムはキリスト(仏陀)で
システム外部は神(仏)です。
宇宙というシステム内部で
システムがひとまず完結するという
自己言及という意味では
神は一つという一神教には
非常に合理性があるのです。
多神教は宇宙というシステム内部の多様性の事です。つまり同じ事を別の角度から言ってるに等しいのです。統一的に見えるものでも中は多様だったり、多様に見えるものでも全体的には統一的に見えたりします。

一神教も多神教も宇宙ではなくて自身で完結すると誤読する事で排他的になります。
az
2018年12月16日 06:06
システム論的には
創造主(神)は
システムの外部として
存在しますよ。
ただしシステムは
自己言及的なので
システムの自己起動、
自己稼働、自己管理、
自己承認の機能は
システムの内部にあります。
創造主(神)は
そのシステムの機能を
間接的に承認してます。
ここでいうシステムとは
宇宙全体なので
宇宙全体の多様性は
認めざるを得ないのです。
しかしこのシステムを
一神教と誤読したところから
多様性を否定する悲劇が
始まったのですね。
これは多神教にも言えます。

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